博多を代表する豪商・神屋宗湛(1551~1635)は、戦国時代から江戸時代前期に活躍した博多商人です。大阪城茶会(1587)で、豊臣秀吉から「筑紫ノ坊主」と呼ばれ、千利休とも会席する茶人でもありました。その宗湛ゆかりの庭の遺構が福岡市天神に残されています。
取材協力:平岡邦幸氏・吉次正利氏
戦前、国宝に指定されていた宗湛の茶室
昭和11年、九州随一の茶室として国宝に指定されていた「宗湛の茶室」。福岡大空襲で焼失。
博多の豪商として時代を闊歩した神屋宗湛が建てた茶室で、天正時代初期に完成しました。場所は元奈良屋小学校付近とされています。
太閤秀吉が朝鮮征伐の折、この庵で茶をたしなんだとも伝えられる由緒正しい茶室でした。
写真)宗湛の茶室
国宝だった神屋宗湛の茶室。豊臣秀吉や千利休らが訪れたと言います。
その後、玄洋社の初代社長であった平岡浩太郎氏の邸内で保存され、先の第二次世界大戦の福岡空襲によって焼失。露地だけが残りました。
京都・加茂川上流の石や鞍馬山の石を配した、風情ある露地の遺構は、都市計画などで撤去にいたりましたが、浩太郎氏の孫に当たる平岡浩氏によって、現在のヒューリック福岡ビル(元福岡富士ビルディング)3階に、復元されたのでした。
福岡の大切な財産とも言える「宗湛の茶室」の中庭について、ご紹介しましょう。
火炎燈籠(かえんどうろう)
赤い御影石でつくったというこの石燈籠は、文禄・慶長の役(1592~1598年)での豊臣秀吉の戦利品と伝えられています。
高さは約180センチ、燃える炎に渦巻く巴紋、雨が降れば一層赤々と燃えて見える意匠は、とても力強く、荒々しい風格を漂わせます。
蹲踞(つくばい)
大宰府政庁跡の都府楼の主柱の礎石を使ったと言われる石は、やわらかなフォルムで見る者の心を和ませます。
時は、茶会に明け暮れた秀吉・利休の時代。
往時のにぎやかな様子を手水鉢の水面に映したことでしょう。
腰掛石(こしかけいし)
茶室には刀を持って入ることが許されていなかったため、太閤の刀を持った石田三成が、好んで腰かけたという腰掛石が配されています。
当時、宗湛と友情をあたためたのが石田三成でした。
甘露井(かんろのい)
臨済宗大徳寺の僧侶、江月宗玩(こうげつそうがん、1574-1643)の手による「甘露井」の3文字が彫り込まれている、井戸の石も見所です。
江月和尚は寛永文化の巨星とも言われる当時を代表する僧侶で、当代一流の文化人でした。
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